「……葵、これが例の……」 「うっわ、見るからに胡散臭っ。特になんだよあの髭。ほら見ろよ悠。胡散臭さが服着て浮かんでるぜ」 話には聞いていても、ソウルジャグラーの実物と対面するのは初めての悠と光輝が、それぞれ訝しげな視線とニヤついた視線で魔人を見つめる。 それに応えたわけではないだろうが、ソウルジャグラーはゆっくりと高度を下げて地に足を付けた。 「ちょっと、どういう事よ!? 昨日の呼び出しに応じなかったのは確かにどうオトシマエ付けさせてやろうかと思ったけど、何もクビにする気までは……」 そこで相手は葵の言葉を遮るかのように無言で首を横に振った。 「我が輩は魔界を追放された身、というのはもう話したであろう?」 「……。確か前にそんな事言ってたわね。で、それがどうかしたのよ。まさかホームシックで帰りたくなったから暇が欲しいとか言うんじゃないでしょうね」 そんな甘ったれた事言ったら引っぱたくわよと続ける前に、魔人はうっすらと微笑む。 「そんな簡単な事であったのならば、どれほど良かった事だろうか」 「……?」 そこでようやく葵も何かに気付いたのか、不審げな表情を浮かべて自身よりも幾分か高めの相手を見上げた。 「ついに我が輩の元へやってきたのだよ。魔界の一派からの追手が」 「追手……? 何の話よ?」 「魔界にも派閥争いがあってな。我が輩が所属していた派閥と対立していた一派が、以前より我が輩に追手を差し向けていたのだ」 「……は?」 「それから逃げ回っていて、前回は君の呼びかけに答える暇など無かったのだよ」 何かを警戒するように、段々とどこか薄暗くなり始めた空を見回しながら、ソウルジャグラー。 『……だがお前はもう魔界を追放されたんだろう? もう関わりの無い事なんじゃないのか?』 「関わりがない? そんなはず無かろう。もし仮に我が輩が魔界との一切の関わりを絶っていたのならば、ソウルを人間に与え、リバイアサンを地上に連れてくる事など出来るまいて」 「……」 どう見ても話について行けてなさそうに口をぽかんと開けている光輝と、話の内容自体は理解しているものの大して興味が無さそうに虚空を見つめている悠、それぞれに一瞥(いちべつ)を送ってから、魔人は髭を撫でつつどこか他人事のようにつぶやいた。 「魔界では常識である、混沌たる強者の理(ことわり)だ。敵対する一派をどこまでも根こそぎ掃討しようとする事など、当たり前だろうな」 そして、魔人の視線が白斗の方を向いた。 「その追手とやらに見つかった事について、何か心当たりはないのか」 「元々我が輩は夕刻にしか活動しないつもりでいた。昼間は光が強く、夜は我が輩よりももっと強力な者たちが幅を利かせる頃合いであったからな。だが、ここのところ少々目立ち過ぎたようだ」 「……。ここのところとは、先月の事か」 「……」 あえてぼかしたであろうその表現をはっきりと告げられ、魔人はどこか顔をしかめた。その視線の先に、一人の少女を見据えながら。 「……確かに我が輩が魔界からリバイアサンを呼び出した事は、奴らに感づかれた要因の一つではあるだろう。だが、こうなるのも元々時間の問題であったやもしれぬな」 いつしか日は完全に沈み込み、周囲一帯の橙色が黒々とした夜の帳で覆いつくされていた。 そして。 「……来たようだ」 やはり髭を撫でながら、ソウルジャグラーがつぶやいた。 どこか生暖かい一陣の風が吹き抜けたかと思うと、そこにいたのは。 人間の身長の数倍はゆうに超えるであろう巨体。 その頭部は山羊にどこか似ていたが、赤黒い体躯の両肩の付け根からは決して山羊には無かったと思われる二本の剛腕が生えた、悪魔。 フードがついた灰色のローブを頭まですっぽりと被った姿。 そのフードを覗き込んでも、覗き返すのはただただ暗い闇だった。 ローブの袖口から覗く骨だけになった手に処刑鎌(デスサイス)を持つ、死神。 そしてその二体を従えるかのように一歩前に出た、透き通るような白い肌に夜の帳のような黒い布を羽織った男。 その姿はどこか神々しくもあり、しかしながらそれ以上に滲み出す瘴気とでもいうべきものが神聖さを打ち消していた。 「さて、ソウルジャグラーよ」 黒衣の男が、無表情に口を開いた。 「分かっているだろう? 我と相対した貴様に、もう次は無いという事が」 「ああ。我が輩もこれ以上は逃げ回る気もないのでな。好きにしたまえ」 特に抵抗する素振りもなく、黒衣の男に従うソウルジャグラー。 「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!!」 葵の叫び声が飛んだ。 「……?」 そこで葵たちの存在に初めて気づいたとでも言うかのように、黒衣の男は眉を潜めた。 「なんだ人間。貴様たちに用事はない。さっさと消えろ」 「こっちはあるのよ! あたしの優秀な手駒を一体どうするつもりよ!!」 フン! と鼻を鳴らし、数メートル先の相手に指を突きつける。 「どうする……? そんな当たり前の事を問うのか」 「なに、こやつらの標的は我が輩のみだ。君たちに危害は加えるまいて。気にするでない」 どこか寂しそうに笑いながら地上に降り立ち、黒衣の男に向けて膝をつく魔人。 「……」 葵以外の三人は、どうすればいいのか分からずにただ無言で立ち尽くす。 『……私だって気持ちは分かる。……分かるが、ここは下がるしか方法が――』 幽霊の震えた声は、すぐに主の声にかき消された。 「いいから待ちなさいよ! そいつにはまだまだ働いてもらわないと困るんだから!」 不気味なほど静かな夜の路地に、彼女の叫び声だけが響いていく。 そして。 それを意にも介さず黒衣の男が指をパチンと鳴らすと、死神の処刑鎌が首筋に振り下ろされ―― 「待てって言ってんでしょ!!!」 何度目になるのか葵が吼えると同時、天空から青白い炎球が降り注ぎ死神に直撃した。 轟音と土煙に紛れ、小型のビルほどもあるその長大な体躯を狭い道路上でいつの間にか窮屈そうに丸めていたのは。 「ほう。魔界の魔獣、リバイアサンか。何故貴様程度が使役しているのか。さてはこの咎人が何かしたか」 大して興味もなさそうに、チラリと足元の魔人を一瞥する。 リバイアサンの吐き出した炎球はなおも燃え続け、暗闇の中でやけに明るい青白い炎だけが燃え盛っていた。 「さぁ! とっととそこのマッスル山羊男連れて魔界に帰らないと、アンタもリバイアちゃんで吹っ飛ばすわよ! 今ならまだ見逃してあげる!」 そう言って黒衣の男に指を突きつける。 そしてその隣で主の叫びに呼応するかがごとく、同じく眼前の相手を威嚇するかのようにアギトをもたげる魔獣。 「今なら見逃してやる……? ククッ、なかなか面白い事を言う」 心底面白そうに笑うと、自身の隣、先ほど魔獣の青白い炎球が着弾した地点に目を向ける。 その瞬間、辺りを照らす青白い炎が掻き消え、そこにいたのは。 「魔獣リバイアサン。なるほど、確かに本気で暴れられると厄介な代物だ」 灰色のローブを羽織った死神が、まとう衣服にすら一切の焦げ目すらなく、ただ無言で宙に浮かんでいた。 「だが今は酷く弱っているな。いや、何か見えざる鎖のようなものに拘束されている、といった方が近いか」 黒衣の男がそう告げるなり、ふわりと上空に浮かび上がってはまるで一礼するかのように上半身を曲げ、着地し直した物言わぬ死神。 「……無駄だ、少女よ。こやつら相手にリバイアサンは効かぬ。なにせソウルの呪縛がある上、我が輩よりも高位である魔界の住人だ。まず勝ち目はあるまいて」 膝をついたまま、髭を撫でる事もせずに苦悶の表情を浮かべる魔人。 「……我が輩の事は気にせず、ここは引くのだ。我が輩が消えても与えた力は無くなることはない」 「ああ。その通りだ」 葵が叫ぶ前に、眼前の相手がつぶやくように言う。 「今回我らが地上に降り立った目的は、ソウルジャグラーの探索及び抹殺のみ。……だが、貴様の邪魔で興が削がれた。よって――」 ふう、と息を吐き。 「その血で贖(あがな)え」 ギロリ、と黒衣の男の視線が四人を捉える。 「やれ。ヴァイタルス」 ヴァイタルスと呼ばれた、今まで微動だにせず付き従っていた山羊の頭をした悪魔。それが瞬時に葵たちの目の前に現れ、風を切る轟音と共にその腕を振り下ろした。 「5秒!!」 とっさに白斗が叫び、彼の超能力(クオリア)である『アクシスクロッカー』により、宣言されただけの刻が静止する。 四人全員がほぼ同時に飛び退(すさ)ったところで、その場所に悪魔の剛腕が叩き付けられた。 えぐれるアスファルトの破片が周囲に飛び散り、その跡地には巨大なクレーターが出来上がる。 それは人間が1人すっぽりと収まってしまいそうな、大きな大きな穴。 「っ! こいつが……っ!!」 明かりといえばぼんやりとした街灯に照らされるだけの薄暗い視界の中、穴を睨み付けるようにして光輝が叫ぶ。 バチッ、と何かが弾けるかのような音、そして山吹色の光が一瞬辺りを照らしたかと思うと、背後に無言でたたずむリバイアサンより幾分か小さめの山吹色の龍が踊り出でて、前方の山羊悪魔(ヴァイタルス)へと食らいついていく! だが突如悪魔の前へと死神が現れ、その手にした処刑鎌を振ると、雷撃の龍は鎌に吸い込まれるようにして消えていった。 「くそ! やるぞ兄貴っ! 悠は下がってろ!」 腰を落として構えた彼の叫びを合図としたかのように、一人は無言で鞄から取り出した木刀を構え、またもう一人はどこか困惑気味に眼前の相手を見つめた。 背後の三人を振り返ってから、葵は改めて黒衣の男に指を突きつけた。 「アンタたちが悠を襲った犯人だったのね! あたしの子分だけじゃ飽き足らず!」 同時に彼女の後ろで待機しているリバイアサンが、尾をビタンとアスファルトの上に一振りした。 「……」 黒衣の男は何も言わず、ただ心底面倒そうに顔をしかめた。 それから眼前の葵と足元のソウルジャグラーを交互に見つめ、そしてふと思いついたように口を開いた。 「そこの小うるさい人間よ。我と一つ賭けをしてはみないか」 「こっ、小うるさいとは何よ!」 葵の抗議を無視し、黒衣の男は続ける。 「賭けの内容は、三日三晩の内に我ら全員を破る事が出来るかどうか、だ。なに、ちょっとした余興だ」 「……!?」 「貴様たちが勝てば、我らは大人しく身を引こう。貴様たちはもちろん、このソウルジャグラーをも見逃してやろう」 ニヤリと笑む相手を、葵は不審げな表情で見返す。 「どうせ騙す気満々なんでしょ? その手には……」 「これは契約だ。魔界の住人たる我々が絶対に違(たが)えることは無いと、我ら一同ここに誓おう」 ふと物言わぬ山羊悪魔と死神が、うなずくかのように同時にゆっくりと頭を動かした。 「ただ、貴様たちが負けた場合は――」 黒衣の男がそこまで言いかけた時、葵はポンと手を打った。 「なんだ、アンタ物分かりがいいじゃない」 「待て、待つのだ少女よ、同意してはいかん!!」 魔人が叫んだ言葉も、今の彼女の耳には入っていなかった。 「分かったわよ。その話乗ってあげる」 その瞬間。 「ここに契約は成った」 黒衣の男が、口の端をより一層笑みで歪め。 「呪の枷を付けさせてもらおう。やれ、デッドエンド」 デッドエンド――背後でひっそりとたたずんでいた死神が、突如葵の背後に現れたかと思うと。 「――え?」 振り向いたクレアが入れ替わる隙さえもなく、骨だけの手に握られた処刑鎌が彼女の首に引っ掛けられるようにして差し込まれ。 息をつく間もなく、一気に引き抜かれた。 まるで、魂を刈り取るかのように。 『葵っ!!??』 膝をつき崩れ落ちるようにして倒れる葵に、三人と幽霊がほぼ同時に駆け寄る。 あんな大鎌で斬られたにも関わらず、彼女の首と胴体は繋がりを保っていた。 暗がりの中、目を閉じたままの彼女を白斗と光輝が抱え起こし、その左胸に悠が耳を当てる。 「……大丈夫。ただ気を失っているだけみたい」 だが。 「おい……何だよ、これ……」 震える手で携帯電話のライトを持つ光輝が指し示したのは、目を閉じたままの葵の首筋。 そこには禍々しいまでに鈍く光る紫色の裂傷が大口を開けていた。 「あれ、あたし……」 そこで目を覚ました葵が頭に手を当て、上半身を起こした。 『お前、その傷……!』 「え……?」 だが彼女はぽかんとした様子で、何が何だか分からないとばかりにしきりに周囲を見回すだけ。 「見て」 「……? な、何よこれ……」 悠から渡された手鏡で自身の首筋の変色に気付いた葵は、恐る恐る自身の傷を撫でる。 「今すぐには効力を発揮しない呪いの印だ。心配せずともよい。今は、な」 眼前の黒衣の男が、不敵なまでにニヤリと微笑む。 見ると、その奥で膝をついたままのソウルジャグラーの首筋にも、いつの間にか同じ紫色の傷跡が。 「おい、アンタら……悠だけじゃなくて葵にも……! 一体何をしたんだよっ!?」 激高した光輝が、再度雷撃の龍を放つ。 だがそれも同じく、死神(デッドエンド)の持つ大鎌の一閃でかき消された。 「何をした、だと? そこの人間の意志によって、契約を成したまでだ。今から数え、三日三晩が過ぎるまでに我ら全員に打ち勝てねば、そこのソウルジャグラーと貴様の魂を持っていく、とな」 突如、黒衣の男の背中から漆黒の翼が生えた。 どこか微かに残る神々しさと、それを打ち消す圧倒的な瘴気。 『黒い羽……コイツの正体は……!』 幽霊がうめくようにつぶやいたのと同時に、ふと白斗は気づく。 この男は魔界とやらに堕ちた天使、堕天使なのだと。 「我が名はカリタス。いや、今はフォールン、と名乗っておこうか」 そこで黒衣の男――フォールンは地を蹴り、夜空へと舞い上がった。 「約束の期日が過ぎるまでは我ら一同、毎夜貴様たちの前に現れよう。抵抗するも逃げるも、貴様たちの自由だ。好きにするが良い」 有翼の堕天使(フォールン)の言葉だけが夜空に響いていき、同時に悪魔(ヴァイタルス)と死神(デッドエンド)も夜の帳に紛れ込むようにして消えていく。 いつしかそこにはぼんやりとした街灯に照らされた夜道と、山羊悪魔の剛腕によって作られたクレーターが残るのみだった。